なにかが見えてくる
おじさんの戯言 (たわごと)
世の光

カトリック教会を拠点として活動しているボーイスカウトが集まり、合同でミサに参加した。教会を拠点としているといっても、もちろん、おじさんを含め、全員がクリスチャンというわけではない。むしろクリスチャンでない人のほうが多い。宗教にかかわらず、青少年の健全な育成に教会が力を注いでいるのである。その寛大さには頭が下がる。それに、参加している子どもたちが元気いっぱいで生き生きとした顔をしているのも印象的だった。

ミサで世界の平和を祈るとともに、神父さんは世の光ということについて、自身のことに絡めてお話をされた。

神父になるための勉強をしていたとき、世の光になるようにと言われて、自分にはそんな大それたものには到底なれないと思い、一度は神父になるのを断念されたそうです。そしてその後、2年程小学校の教員をされていて、普段見えない光が一筋の光として見えることもあるということに気づかれたそうです。朝、部屋の窓から差し込む光。教会のステンドグラス越しに差し込む光。森の木々の間から差し込む光。普段見えない光が光の筋となって目に見える。普段見えない光がなぜ見えるのか。空気中に舞っている細かい塵や小さな虫などが陽光を受け、それを反射しているがために、一筋の光となって我々の目に見えている。塵や虫はそれ自身光を放っていない。外からの光を反射しているにすぎない。しかし、我々の目に光が見えるように、大事な媒介の役目をしてくれている。それを知って神父さんは、それなら自分にもできるかもしれないと思えるようになり、再び神父になるための勉強を始められたそうである。

我々みんな光に向かって歩いていけば、必ずそういう役割を果たすことができる。そして、自分自身輝いてくる。そして、その輝きが世の中を照らし、この世の中に差し込む一筋の光となる。それが世の光なのです。そのような一筋の光がたくさん集まると、この世の中を変えていく大きな力となるのです。自分が輝くためには、自分の中にある光を探し、それに向かって歩んでいく。必ず自分の中の光は見つかるはず。自分が熱意をもって、全精力を傾けて、懸命に取り組めるもの。それが自分の内なる光なのです。それがどんなものであるか、いつ姿を現してくるか、は人によって違います。しかし、誰しも必ず、そのような光を内に秘めているものです。それを懸命に追い求めることで、自分がその光を反射し、一筋の光となって世の中を照らすことができるのです。そういう人になってほしいのです。

神父さんのお話の後、拝領の儀式があり、クリスチャンの人はキリストの体であるパンを神父さんからいただき、クリスチャンでない人は神父さんの前に進み出て、一人ずつ祝福を受けた。おじさんは神父さんの顔を目の当たりにして、遠くから見ているのと違った印象を受けた。目の前で見ると、ある程度お年を召していらっしゃるようだが、少し離れた所でお話を聞いていたときの印象としては、すごく若くてはつらつとした青年のように思えた。お話をしていらっしゃるときの顔が生き生きとしていた。目が生き生きとしていた。やはり光を放っていらっしゃる方は生き生きと輝いている。光を反射しているのではなく、自らが輝き、光を放ち、世の中を照らす世の光となっておられる、とおじさんは思うのだった。
(2009)


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